ビラーンの医療と自立を支える会(HANDS)

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現地報告 ビラーン通信37号より

2003年12月2日より1月20日まで現地に滞在し、学校があるブラクールに5日間、アトモロックに
1週間滞在することができました。ここでは学校生活の報告をしたいと思います。 相田 陽子

ブラクール

 現地協力NGOであるPFPの事務所があるスララ町をオートバイで10時に出発、1時半ごろブ
ラクールの集落の中心に着きました。

 集落の中心から学校まで歩いて10分ほどですが、粘土でぬかるんでいてすべりやすくなって
いました。平らな広い部分はここしかなかったと、集落から少し離れた場所に学校ができまし
た。1999年と2000年にFOTの会員の寄付で、小学校の校舎2棟、ハイスクールの校舎1棟(各
学年1教室)が作られました。それに2階に5部屋あるスタッフハウスと、スクールキッチンと呼ば
れる、屋根だけの給食用の調理をする建物があります。その屋根のコゴン草は半分以上無く
なっており、修理が必要です。

 生徒数は小学生115名、ハイスクール45名です。現在8人の教師のうち5名がFOTのあしなが
奨学金を受け、カレッジ卒業後、教師の資格を得て働いています。皆、奨学金で勉強する機会
が与えられ、教師として同じ民族の子ども達を育てる仕事につけたことに感謝していました。

 現在、会員の寄付によるヤギ育成事業、アグロフォレストリー農場事業があります。ヤギ育
成事業は、生徒たちが当番制で世話をしていて、子ヤギが5匹生まれました。繁殖させて売る
だけが目的でなく、ヤギの糞は良い肥料になるのでヤギ育成事業を選んだとのことです。アグ
ロフォレストリー農場事業は等高線上にフラミンジャの種を蒔き、果樹の苗を植え終わり、教師
が1haずつ責任をもって担当しています。フラミンジャは根が張るので、土止めによく、40〜50
センチに育つと、刈って緑肥として使います。農場と言ってもかなりの斜面です。5年後には果
物がなり、住民組織の組合員が消費する以上の量が生産できるようになったら、販売し、住民
組織の収入にします。

  10kmほどの距離にある集落に住む子どもたちの為に、学校のそばに寮が2つあり、それぞ
れ十数名が住んでいます。小学1年から親と離れて住むのですから大変なことだと思います。

 5日間の滞在中お天気だったのは2日だけでした。到着した翌日は明け方から激しい雨で、
生徒の3分の1しか登校できませんでした。川を渡って来る生徒達は危険で登校できなかった
そうです。登校する子の多くは傘も無く、ずぶぬれになって来ます。着替えがあるわけでもなく、
よく風邪を引かないものだと感心してしまいます。時間になったから授業を始めるのでなく、生
徒が集まったら授業を始めるという感じですが、雨の中やって来た生徒達のためには、早く授
業を始めてあげる方が良いのではと思ってしまいます。ハイスクールは生徒数が少なかったの
で4学年一緒の授業をしていました。


植樹後、防護柵を作ってくれる生徒たち。
金槌がなく石で釘を打っている。
  その翌日はクリスマスパーティで学期最後の日でした。朝早くから音がするので何かと思ったら、先生と生徒の何人かがパーティの料理の準備を始めていました。小雨が降っていて、スタッフハウスの軒下で火をおこしていたのです。メニューは、マカロニサラダとスパゲッティミートソースです。お湯をたくさんわかす必要があったわけです。
 クリスマスパーティは、校庭で一同が会し、挨拶の後、各教室へ入りました。低学年は母親も参加し、幼い子がいる母親は幼い子も連れてきていました。お料理を食べ、プレゼントをもらって、閉会となり、皆喜んで学校を後にしていました。
 そして記念植樹をさせてもらいました。「地獄のにおい、天国の味」と言われるドリアンの苗木を3本、植えてきました。7年後には実がついているとのこと。収穫できるのを楽しみにしています。

アトモロック

 アトモロック山を背景に、学校は厳かな雰囲気を漂わせていました。2004年1月5日月曜日、休み明けの学期始め、子ども達が学校へ戻ってきました。校庭の手入れをする刃物を手に持って登校してきます。刃渡り30センチ以上ある刃物を1年生でも持ってきているのには驚きました。しかしこの後さらに驚いたのは、学校の先生の2歳の男の子が、皆が刃物で校庭を手入れしているのを見て、自分も真似して刃物を持って、雑草を刈っていたのを見た時でした。
 
同級生と校庭の草取りをするジュンリ

 その子の母親である先生はそばにいますが、「危ないから」と言って、やめさせることはあり
ません。子どもは真似をする、という当然の行動を認めています。日本でのように「危ないか
ら」と、危険と思われるものは取り上げるのと、なんという違いでしょうか。それぞれ持ってきた
刃物は、授業中は机の上や下に置いてあります。「刃物がごろごろしている」という印象に抵抗
がありましたが、怪我をしたという話はききませんでした。鉛筆を削るのに使ったりもしていまし
た。
 子ども達は分担して、教室・庭掃除、花壇の手入れ、植木鉢の水やりなどを行い、鐘を合図
に校庭の中央に皆集まり、国旗掲揚と国家斉唱がありました。先生のお話の後、各教室に入
り、授業が始まりました。2学年ずつの複式授業です。教室の床は、以前は土のままだったの
ですが、昨年4月ディダン先生がバヤニンフィリピン人賞を受賞し、その賞金を寄付して、板張
りの床になりました。

 小学1年に17歳、2年に13歳、6年に20歳の生徒がいました。17歳で1年生のジュンリは、お金
がないけど学びたいとエルナ先生に訴え、エルナ先生が家庭での仕事を与えて、学校で学べ
るようになりました。自らも苦学生だったエルナ先生は、経済的に楽とは言えないけれど、勉強
したいというジュンリの意志を尊重し、できる範囲で援助したいとの事でした。20分の休み時間
でも薪を割ったり、豚のえさを準備したり、ジュンリにとって「休み」はありません。20歳で6年生
のジェームスは、農家の手伝いをして働き、学校で必要な経費を自分で払っているとの事。学
齢に達しても学校へ行けない、授業料が払えなくて退学せざる得ないというのは、フィリピンの
貧困の負の面ですが、いくつになっても勉強したければ学校へ行ける、周りも受け入れるとい
う、フィリピンの多様性を示す良い面を見ることができました。

 授業は、一般的に、教師が教科書に書いてあるのを黒板に書き、それを生徒が写す、それ
に関して質問する、という形式でした。質問には、熱心に手を挙げ(日本のように真上に挙げる
のでなく、上前方ですが)、当たりたくて「先生、先生」と叫んでいました。答えるのにノートをそ
のまま読んで良いのには驚きました。それなら皆答えられると思うのですが、やはり積極的に
答えるのは決まった生徒です。ノートもとらない、手も挙げないと、ただ教室に座っているだけ
の生徒が各クラス数名はいました。2学年一緒で40名程のクラスですから、先生の指導は限ら
れてしまいます。せめて1年生には助手の先生でもいればと思ってしまいますが、まだまだ質よ
り量の時なのでしょう。
 午前中3時間のうち、休み時間は1回20分だけで、科目が変わるごとに休み時間があるわけ
でないので、科目の変わり目には、動作をつける歌を歌って、身体を動かしていました。「幸せ
なら手をたたこう」のフィリピノ語版があることを知りました。

 学校から歩いて15分程のキリルダタルと言う集落へ、母親クラブの養豚事業の様子を見に
昼間行ってきました。何事かと興味深く集まってくる子ども達の中には、明らかに学校へ行って
いるべき年齢の子ども達がまじっていました。まだまだ学校へ行けない子がたくさんいる事実
を知るのは辛いことでした。
 先住民族の子にとって、言葉のハンディもあり、都会の子と同列になるのは大変難しいと感じ
ましたが、教育とは時間のかかること。早急な結果を求めず、時間をかけて見守りたいと強く
感じました。



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